20歳、ビジネスの世界に飛び込んだ僕のキャリアの軌跡

ぎんじろう
感謝してます!ギニーWebのぎんじろう(現在31歳)です。

大学時代、僕は同級生の多くとは違う道を選んだ。当時、休学して海外留学や海外放浪、ワーホリに出る同級生は多かった。でも、起業やビジネスの道に進む学生はほとんどいなかった。人生の旗を見失っていた僕は、その少数派の道を選んだ。

 

この記事では、20歳から30歳まで、遠回りだらけだった僕のキャリアの軌跡をそのまま記録しておく。

なぜビジネスの道を選んだのか

理由は大きく二つある。一つは、父の道場が閉まったときに芽生えた「集客さえできていれば、父はまだ道場を続けられたんじゃないか」という思い。もう一つは、母方の祖父の影響だ。祖父は商売人で、その生き方をずっと近くで見て育ったこともあり、もともと商売そのものへの興味が僕の中にあった。この二つが重なって、ビジネスの世界に自然と足が向いていった。

20歳、コピーライティングとの出会い

20歳のとき、コピーライティングとマーケティングの勉強を始めたことが、人生が変わり始めた転機だった。2015年、Webサイトを作って運営を始めたのも、この頃からだ。まだこの時点では、収益と呼べるほどの金額にはなっていなかった。

21歳、写経と筋トレの日々

21歳のときには一度休学し、ひたすら偉人が書いたセールスレターの写経と筋トレをする毎日を過ごした。この時期に打ち込んだ筋トレ・ビジネススキル・マインドセット・自己学習・栄養学が、後の自分の土台になっている。

22歳、仙人さんの孫弟子の元での修行、そしてドル建て収入

22歳では、仙人さんの直弟子が経営するWebマーケティング会社で、業務委託のWebコピーライターとして働かせてもらった。実際にコピーライティングを直接教えてくれたのは、仙人さんの孫弟子にあたる方だった。薄給で、1週間に1万字を書かされるような環境だったけれど、今思えばあれが良い修行になった。

 

ちょうどこの頃から、アフィリエイトの広告収入もドル建てで得られるようになった。海外の証券会社を複数社、それに海外の決済会社までプロモーションしていたからだ。その海外の決済会社は口座にウォレット機能とデビットカードが付いていて、当時としてはかなり便利なサービスだった。ただ、マネーロンダリング対策の観点もあったのか、その後日本国内では使えなくなり、僕のビジネスもそのプロモーションからはしぶしぶ撤退することになった。田舎の大学生が、気づけば為替を意識しながらドルで稼ぎ、意外とグローバルにビジネスをしていたというのも、今思えば妙な話だ。

23歳、復学と関西の彼女との出会い

23歳になる頃には自分のサイトの収益が上がり始め、同じ年に復学して、大学の授業を受けながらアフィリエイトサイトの運営も続けた。

 

復学後は、冬休みや春休みといった長期休暇のたびに、リゾートバイトにも出かけた。色々な土地で色々な人と出会い、恋愛をすることもあった。ASDという特性を抱えながらも、働くこと・人と関わることに自信を得られたのは、この時期の経験が大きい。

 

そもそも僕の「働く」ことへの土台は、大学時代、毎年夏休みに祖父の店で働かせてもらっていた経験がコアになっている。商売人だった祖父の背中を間近で見ながら働いたあの時間が、今の自分の仕事観の原点にある。

 

そして23歳のこの年、関西出身の彼女と出会って交際が始まった。アルバイトをしなくても、ビジネスからの収益でデートや旅行を楽しめるくらいには、事業が育っていた時期だった。この彼女とは4年間付き合い、本気で結婚も考えていた。

24歳、青色申告で個人事業主登録

24歳のとき、青色申告で個人事業主として登録し、「ギニーWeb」という屋号を正式に構えた。23歳での収益の伸びを経て、ちゃんと事業として税務上も届け出るタイミングだった。彼女との交際も順調に続いていた時期だ。

このタイミングを後押ししてくれたのが、大学時代の別の経験だった。大分県庁×APU・大分大学・大分芸術文化短期大学、三大学共同の地域起業塾で、税理士法人のデロイトトーマツの方にメンターについてもらいながら、大分県の地域起業のビジネスアイデアを作り、実際に関係者の前で発表したことがある。そこで大分県内の起業家の先輩たちとも繋がることができ、創業支援をしている方や現在県議会議員をしてる方にもお世話になった。その縁もあって、大分県から助成金を引っ張ってきて、このギニーWebのサイトを制作したり、テストマーケティングとしてFacebook広告に出稿したりもした。

今振り返っても、良い経験だったと心から思う。最近はあの頃お世話になった方々と全然連絡が取れていないけれど、感謝の気持ちは変わらない。同時に、大分県を飛び出してきたことで、あのとき応援してもらった大分県に、まだちゃんと恩返しできていないという、ちょっとした罪悪感も正直ある

25〜26歳、大阪への挑戦

25歳のとき、大学を卒業すると同時に、彼女が仕事の異動で関西に戻ることになった。僕も関西で働こうと決めて、身につけたコピーライティングのスキルで自分の就活プロフィールを書き上げ、26歳のときに大阪のWeb広告代理店にスカウトされて入社した。

 

大阪に引っ越すにあたっても、方位をきちんと調べた上で、九星気学でいう大吉方位のタイミングに合わせて引っ越した。当時は「せっかく大吉方位を選んで引っ越したのに、なぜこんなにハードな日々が続くんだ」と本気で辛かったのだけれど、今振り返れば、あれは運気が根本から立て直される過程だったのだろうと思っている。

 

けれど、大阪に引っ越した後、彼女とはなかなか会えなくなり、関係はうまくいかなくなって、結局別れることになった。彼女のために正社員として頑張る意味もなくなり、激務だった広告代理店の仕事も辞めた。

アフィリエイト収益の衰退と、消えなかった自信

あのアフィリエイトサイトの収益は、広告代理店で忙しく働いていた時期に更新が止まり、そこから徐々に減っていった。理由は忙しさだけではない。当時やっていたのはFX系のアフィリエイトで、正直、利益は出やすい案件だった。それでも、広めれば広めるほど、最終的にはFXというゼロサムゲームで損をして不幸になる人が増えていくのではないかという罪悪感が、ずっとどこかにあった。数字だけを追うことにモチベーションが湧かなくなり、そこから自然と手が止まっていった。結局、自分の心までは騙せなかったのだと思う。今ではGoogleのアップデートの影響もあって、広告収入はほぼゼロになっている。

 

それでも不思議と焦りはない。あのときゼロイチでビジネスを立ち上げ、実際に数万ドルと収益化まで持っていった経験があるからこそ、またやれば作れるという自信がある。しかも今はAIがある時代で、当時よりもずっと作りやすくなっている。過去の資産がゼロになったとしても、資産を作る力そのものは、僕の中に残り続けている。そして今度は、誰かを損させる方向ではなく、健康な人を増やす方向で、その力を使えている実感がある。

損切りできたことも、一つの成果

ビジネス面での投資は、主にマーケティング・コピーライティング・プログラミング・Web広告費に注ぎ込んできた。一方で金融投資にも、株・FX・オプションの裁量トレードやシステムトレードという形で、かなりの時間とお金をかけてきた。使っていた海外の証券会社が経営破綻して、口座に入っていた資金がまとまった額で消えたこともある。チャートを100年分くらいひたすら読み込んで練習し、イギリスのプロップファームの選考試験に、高い受験料をイギリスポンドで払って挑んだこともある。結果は、悔しいことに不合格だった。あの数年間は、自分に裁量トレードの才能があるかどうかを見極めるための、集中的な検証期間だったという位置づけだ。

 

それでも、これだけ死に物狂いで練習して結果が出なかったことで、逆に「この分野は自分の才能を発揮できる場所ではない」と、はっきり損切りすることができた。今では、自分の才能を発揮できない分野に労力・時間・リソースを使い続けることの方が、よほど人生の損失だと思っている。負けを認めて撤退できたことも、一つの成果だったと今は思える。

 

今も投資自体は続けているけれど、システムトレードや投資信託に任せる形にしている。実は裁量のスイングトレードでは月利10%ほど稼げるスキルもあるのだけれど、今の資金力ではそこに自分の時間・労力・意思決定を使うこと自体がもったいないと判断して、あえて手を動かさずにいる。将来、時間対効果に見合うだけの資金規模になったら、またスイングトレードで稼ぎにいくつもりだ。

 

極真空手の創始者、大山倍達総裁の「力なき正義は無力なり。正義なき力は暴力なり」という言葉がある。父から受け継いだ空手の世界の言葉だけれど、これはトレードにもそのまま当てはまる気がする。資金力なきトレードスキルは無力だし、トレードスキルなき資金力もまた、正しく使われなければただの暴力的なギャンブルになる。今の僕は、スキルはあっても資金力が足りない側にいる。だからこそ、今は無理に動かず、力を蓄える時期だと割り切っている。

27〜29歳、フリーター生活、そして「これだ」と思った瞬間

広告代理店を辞めた直後は、過労死しかねないほど働き詰めだった反動と、不眠症の療養も兼ねて、数ヶ月ほどいわゆるニート生活を送っていた。ただ、この引きこもり一人暮らしの生活が本当に退屈すぎて、精神的に発狂しそうになる瞬間もあった。

 

そんなとき、同じマンションでジムウェアを着たお姉さんとすれ違った瞬間、「これだ」と思った。その日からすぐに筋トレと食事制限を始め、デスクワークで太っていた体を、2ヶ月でシックスパックまで仕上げた。そしてそのままキックボクシングジムのトレーナーとして働き始めた。アルバイトという意味では、ここから27歳から29歳までのフリーター期間が始まる。

 

アフィリエイトサイトも収益がなくなり、金融投資でも大損をしたのちのこのフリーター時代は、正直ひもじい思いをして苦労もした。

28歳、大吉方位の神奈川へ

関西の彼女と別れて、いよいよ関西にいる意味もなくなった28歳のとき、学生時代からの一番仲の良い親友たちがいる神奈川に引っ越してきた。この引っ越しも、たまたまではなく、方位をきちんと調べた上で、大吉方位のタイミングに合わせて決めたものだった。今、パーソナルトレーナーとしてもインハウスマーケターとしても仕事が発展し始めているのは、単なる偶然ではなく、この意図的に選んだ引っ越しのタイミングも影響しているんだろうなと思っている。ただのフィットネストレーナーから、現在のパーソナルトレーナーへと進化できたのも、この神奈川での時期からだ。次に引っ越すときも、ちゃんと大吉方位を選びたいと思っている。

30歳、今の職場へ

30歳という節目を目前にして、悩んでいたことがあった。大阪店から横浜店に異動し続けていたキックボクシングジムのトレーナーは楽しいけれど、正直このままアルバイトとして働き続けるのでは儲からないし、将来性もない。またWebマーケターに戻ろうか、とも考えた。ただ、正社員という働き方は精神をすり減らすのが嫌だったので、まずは派遣のWebマーケター求人に登録して、片っ端から応募してみた。結果、全部落ちた。

 

「これはフィットネス業界に行けということか」と腹をくくり、超大手の高級フィットネスジムを受けたこともある。新宿まで足を運んで、社長面接まで進んだ。そこで「マネジメントをやりたいわけではなく、パーソナルトレーナーとして現場で活躍したいんです」と正直に伝えたら、見事に落ちた(笑)。

 

結果的に、どの業界に骨をうずめて自分の使命を燃やしていくべきかを真剣に考え直し、たどり着いたのが、パーソナルトレーナーとインハウスマーケターを掛け合わせた、ハイブリッドな働き方だった。

 

そして30歳のとき、業務委託で今の職場(かたぎり塾日吉店)に入り、正式にパーソナルトレーナーとしての道を歩み始めた。今となっては、あの遠回りも含めて、最高の結果にたどり着けたと思っている。

 

紆余曲折あったけれど、今のこの道で良かったと思っている。人生に迷走して、悩んで、恥ずかしくて昔の友人に自信を持って会えない時期もあった。でも今は、胸を張って会える。そんな自分を誇らしく思う。この10年間、何を大切にしてきたかという話は、弱さを受け入れることにたどり着くまでにまとめている。

 

ぎんじろう
ではでは、最後までお読みいただき感謝しています。 あなたに全ての良きことが雪崩のごとく起きます!