
今回は僕の英語との出会いの話を書こうと思います。
「英語が得意なんですね」と言われることがあるんですが、別に最初から得意だったわけじゃない。
むしろ中学時代は英語の先生が大嫌いでした(笑)。
それでも英語が好きになれたのは、ある一人のアメリカ人との出会いがあったからです。
身長183cm、金髪のアメリカ人が現れた
中学2年のとき、ALT(外国語指導助手)として学校にやってきたのがトラビス先生でした。
身長183cm、23歳、金髪の白人アメリカ人。
大分県の片田舎の中学校に突然現れたその存在感は、当時の僕には衝撃的でした。
授業中に「日本の武道に興味がある」という話を聞いて、僕はすぐに声をかけました。
「うちの父が空手道場をやってるんですけど、来ませんか?」
今思えばなかなか大胆な誘い方ですが(笑)、トラビス先生はその場で即答してくれた。
父の道場にアメリカ人がやってきた
こうしてトラビス先生は武心塾に入門することになりました。
毎週2回、夜7時から9時まで一緒に稽古する日々が始まりました。
ここで一つ問題がありました。
父は英語が話せない。
トラビスは日本語が話せない。
必然的に僕が通訳を担当することになりました。
当時の僕の英語力は中学2年生レベル。正直、心細かったです(笑)。
でも「なんとかしないといけない」という状況に追い込まれたことで、独学で英語をどんどん勉強するようになりました。
トラビス先生からは英会話を教えてもらいながら、僕は空手の技術を日本語と英語の両方で説明する練習をしていた。
「正拳突きはstraight punchって言うのか」「蹴りはkickでいいんだな」
そんなやりとりを繰り返しながら、気がついたら英語が楽しくなっていました。
トラビス先生、大会で3位入賞
稽古を重ねるうち、トラビス先生を大分県実戦空手道連盟の大分県大会に出場させることになりました。
当時のトラビス先生はまだ黄色帯。
でも身長183cmという体格を活かした顔面膝蹴りを特訓で叩き込んでいたので、それを武器にしようと作戦を立てました。
大会当日、朝早起きして父の日産サファリという四駆の後部座席に、兄とトラビス先生と僕がぎゅうぎゅうになりながら乗り込んで、1時間かけて会場に向かったのを今でも覚えています。
試合では、その顔面膝蹴りでKOを決めることもあって、一般組手の部で見事3位入賞。
僕はセコンドとして英語で指示を出していました。
トラビス先生が入賞したとき、自分のことのように嬉しかった。
みんなで特訓して結果を出して一緒に喜んだ、本当に良い思い出です。
中3になるまでの約2年間、トラビス先生と一緒に稽古して、大会にも出場しました。
このときから英語が大好きになりました。
英語の先生は大嫌いだったけど
中学3年になって、担任が変わりました。
担任はビンタや罵倒をする暴力教師で、英語の先生はパワハラ教師でした。
クラスの生徒たちは大人しく従っていましたが、僕はどうしても受け入れられなかった。
結局、クラスで唯一不登校を選択しました。
これが今の僕の「権威や理不尽な習慣に疑問を抱き、反抗する」という価値観の原点だと思っています。
ただ、高校受験があるので勉強だけはしないといけない。
友達にノートを借りながら、独学で1日10時間勉強しました。
試験日だけ保健室登校して受験。
面白いのが、英語の先生は大嫌いだったのに、英語のテストだけは独学で90点以上取れたことです(笑)。
先生が嫌いでも、英語そのものは好きだった。
トラビス先生と一緒に稽古した日々が、英語への愛着を作ってくれていたんだと思います。
南アフリカ出身のALTとの放課後
高校に進学した僕は、普通科の国際文化系列(語学コース)に入りました。
そこで出会ったのが、フリーダ先生。
南アフリカ出身、27歳、金髪の白人女性で、作家志望のゲーマーという個性的な人物でした(笑)。
フリーダ先生と毎週放課後に英会話をするようになりました。
仲の良い幼なじみの「もぎー」も一緒に居残りして、3人で話す感じでした。
もぎーもフリーダ先生もゲーマーだったので、マインクラフトの話やPCのスペックの話で盛り上がってることが多かったですね。
僕はゲーマーじゃないのでよくわからなかったけど(笑)。
英語スピーチコンテストの前は毎日居残りして、フリーダ先生に発音を徹底的に指導してもらいました。
おかげで元々アメリカ訛りだった英語が、高校時代の特訓でイギリス訛りになるという謎の現象が起きました(笑)。
大学時代にまたアメリカ訛りに戻って、高校卒業後に母校の文化祭でフリーダ先生と再会したとき「アメリカ訛りになったね〜」と笑われました(笑)。
大分県優勝、そして全国大会へ
スピーチコンテストのテーマは「The Importance of Language Learning(言語学習の重要性)」。
ディクテーションの部だったので、完全に丸暗記して臨みました。
大分県大会は僕以外の出場者が全員女の子だったんですが、優勝して大分県代表として全国大会出場が決まりました。
終わった後に他校の子やスタッフで来ていた後輩の女の子たちに囲まれて「すごい!」ってモテた記憶があります(笑)。
全国大会は東京の人混みと空気にやられて風邪をひいて敗退しましたが(笑)、文部科学省大臣の前でスピーチできたことは今でも忘れられません。
14カ国55名の高校生と、沖縄で3週間

アジアユース人材育成プログラムにて。14カ国から集まった仲間たちと、英語だけで過ごした21日間
高校3年のとき、スピーチコンテストの実績がきっかけで沖縄県主催のアジアユース人材育成プログラムに九州代表として選出されました。
アジア14カ国から55名の高校生が沖縄に集まり、英語だけでエネルギー問題について話し合う3週間の共同生活です。
沖縄県外ブロックの日本人高校生は全国でたった13名のみ。
旅費・宿泊費は沖縄県持ちで、21日間の短期留学でした。
このプログラムのアクティビティに「空手」があったんですが、それが決め手でエントリーしました(笑)。
他のチームはエイサーをやっていた中、僕は14カ国の高校生たちに英語で空手を教えることになりました。
発表会では僕が号令をかけて、みんなで気合いを入れながら正拳突きを10発。
異国の仲間たちと「押忍!」と声を揃えたあの瞬間は、今でも鮮明に覚えています。
中学時代にトラビス先生に空手を教えながら英語を覚えた僕が、今度は英語で世界中の高校生に空手を教えていた。
なんか繋がってるなと思います。
このプログラムのチューターとして参加していた立命館アジア太平洋大学(APU)の外国人大学生に影響を受けて、APUへの進学を決意しました。
銀ちゃん英語塾、誕生と終焉
APUに入学すると、留学生が全学生の約半数という環境で、英語を使う機会が一気に増えました。
英語が苦手な日本人の友達に英語スピーキングを教えるコミュニティ「銀ちゃん英語塾」を自ら立ち上げたのは大学1年のときです。
口コミでどんどん広がって、メンバーは最終的に約20人くらいに成長しました。
他にも、ベトナム武術サークルに半年間入って英語とベトナム語の練習をしたり、キックボクシングサークルで後輩や国際学生たちに英語で格闘技を教えたり。
でも英語塾もキックボクシングサークルも、どれだけ時間を使っても1円のお金にもならなかった。
楽しかったけど消耗してしまって、結局やめることにしました。
ベトナム武術サークルもまた来るよと約束したまま疎遠になってしまって、今でも少し罪悪感があります(笑)。
このときの原体験が、「お金を取らずに価値提供し続けると消耗する」「マネタイズの仕組みがあれば続けられた」という気づきになりました。
英語は「手段」じゃなく「人との繋がり」から生まれた
振り返ってみると、僕の英語力は「勉強して身につけた」というよりも、「人との出会いの中で自然に育った」という感じです。
トラビス先生と空手の稽古をしたから英語が好きになった。
フリーダ先生と放課後に話したから発音が鍛えられた。
アジアユースで14カ国の高校生と話したから度胸がついた。
APUで留学生たちと友達になったから実践的な英語が身についた。
英語の先生が大嫌いだった中学時代も、英語そのものは好きだったのは、トラビス先生という「人」との繋がりがあったからだと思います。
「教える」衝動も、英語も、空手も——全部、人との出会いから始まっていた。
今のパーソナルトレーナーの仕事も、Webマーケティングも、突き詰めれば「人に何かを伝えて、その人の人生をちょっと良くしたい」という動機から来ているのかもしれません。
中学2年のあの日、「日本の武道に興味があります」と言ったトラビス先生に声をかけたことが、今の僕を作ってくれた出発点のひとつだったんだと思っています。













