
前回の記事では、母方の祖父・松本巧から教わった「ナンバー1よりオンリー1」という話を書きました。
今回は、もうひとりの大きな存在——父の話を書こうと思います。
「なぜ僕がWebマーケティングを学び始めたのか」「なぜトレーナーをやっているのか」、その両方の答えが、実はここに全部あります。
少し長くなりますが、お付き合いください。
帯刀家の因果——実業家から借金まみれへ、そして公務員へ
まず父を語る前に、帯刀家のルーツを少し話さないといけない。
僕のひいひいじいさん・帯刀寅吉は、大分県杵築市山香町の地元では名の知れた実業家でした。
なんと銅像まで建っている人物です。

大分県杵築市山香町に今も立つ、帯刀寅吉翁の胸像

雨の中でも静かに佇む胸像。昭和12年に建立された

帯刀寅吉翁胸像の説明板。山香銀行の創設にも尽力した地域の偉人だった
文久3年(1863年)生まれ。
18歳のとき、単身で群馬県まで歩いて行き、農家に寄宿しながら養蚕・製糸の技術を学んだ人です。
途中横浜の貿易会社でも働き学んだらしい。
5年後に帰郷すると、当時日本一の生産地だった群馬の先進技術を引っ提げて農家を巡回し、大分県の山香の地で養蚕業の振興に尽力しました。
明治31年(1898年)には山香銀行の創設にも携わり、取締役頭取として経営にあたるなど、地域の産業・教育・自治に多大な貢献をした人物です。
18歳で群馬まで歩いて行く行動力、技術を学んで地元に還元する志。
今の時代で言えば起業家そのものですよね。
ところが、その息子である僕のひいじいさんが他人に頼み込まれて借金の保証人になってしまった。
多額の負債を残して、帯刀家の事業も資産もほとんど手放すことになりました。
家には家政婦さんまでいたのに、一気に転落してしまったわけです。
その借金を苦労しながら返し続けたのが、父方の祖父母です。
区役所職員と郵便局員という、堅実な公務員として働きながら、コツコツと返済を続けた。
「地域の偉人→借金で全部失う→公務員として地道に返済」という因果の連鎖が、帯刀家にはあったわけです。
ただ帯刀家の血はちゃんと生きていて、父方の祖父の弟は大手企業でアメリカやヨーロッパを渡り歩いてキャリアを積み、グループ会社の社長まで務めた人物です。
その娘さんも別の大手企業で執行役員まで登り詰めています。
そして僕自身も、母方の祖父・松本巧という商売人の血を引いています(こちらの記事に詳しく書いています)。
父方に実業家の血、母方に商売人の血。
そういう家系に生まれた以上、僕もこれから証明していかないといけない。
そしてその公務員の祖父母のもとで育ち、環境に反発するように育ったのが、僕の父でした。
ヤクザに憧れた不良少年が、武道と出会った
公務員の両親のもとで育った父は、高校生のころには反発心からか、そりこみを入れてタバコを吸う不良になっていました。
当時の父には「強さへの憧れ」があったといいます。
ヤクザの世界に憧れていたこともあったらしい。
父の大学時代からの大親友に「上野のおじき」という人物がいます。
北九州のヤクザの家系の出身でありながら、本人はカタギで年商10億の会社を経営していた、なかなかスケールの大きな人物でした(笑)。
父が生涯慕い続けた大親友です。
残念ながら僕が26歳のときに急逝されました。
おじきについてはこちらの記事に詳しく書いています。
そういう世界と近いところにいながら、父が最終的にヤクザの道に進まなかったのは、武道と出会ったからだと思っています。
高校・大学時代に少林寺拳法を始めた父は、九州チャンピオンにまで上り詰めました。
そして三段の昇段試験の日に腕試しで極真空手の大会に出場してKO負けを経験してから、25歳で極真空手に入門するという、なんとも父らしい経緯で格闘技の世界に深く入っていきました。
極真時代には千葉県船橋市に住んで著名な師範のもとで直接指導を受け、アメリカの円心空手総本部道場への武者修行も経験した。
大分に戻ってからも国内の著名な武道家たちと直接稽古を重ねるなど、国内外で本物の強さを追い求め続けた人物です。
父の武道家としての歩みはそれだけで一本記事が書けるくらい濃いので、いつか改めて書こうと思います(笑)
若い頃には北九州の飲み屋で包丁を持ったヤクザ2人と喧嘩して、自分は無傷で相手をボコボコに倒したという逸話も残っています。
強さへの憧れから始まった道が、本物の強さへと変わっていったんだと思います。
九州に名の知れた武道家になっていった父
極真で指導員として経験を積んだ父は、あるとき独立を決めます。
理由が父らしくて笑えるんですが——「自分の子供の月謝まで払って自分で教えるのはバカらしい」と思ったらしい(笑)。
独立後は自分の道場を開き、大分県実戦空手道連盟に加わってました。
そこから大分の著名な武道家の師匠に弟子として気に入られ、滝打ちや山籠りまでやるようになった。

山籠りでの稽古。父に連れられて僕は子供のころからこういう環境が日常だった
さらにその師匠にあたる宗家にも認められて、九州の武道界で名の知れた存在になっていきました。
大分県の田舎で開いた道場なのに、多いときは道場生が100人近く集まっていました。
これはひとえに父のカリスマ性のおかげです。
田舎の小さな道場で100人集めるのは、並大抵のことじゃない。
極真の著名な館長が九州でボディーガード会社を設立しようとしたとき、父をスカウトしたという話もあります。
ヤクザにも武道家にも認められるカリスマ性を持った人なんです。
その人の息子が僕です(笑)。
友達が部活に行く間、僕はずっと道場にいた
そういう父のもとで育ったので、空手は物心ついたときから日常の一部でした。

物心ついたときから道着が日常だった
小学6年生のときに黒帯を取って、10代前半からずっと指導員をしていました。

武心塾の道着と帯、そして表彰状。友達が部活をしていた頃、僕は道場にいた

空手の大会でメダルを獲得。このドヤ顔が全てを物語っている(笑)

高校時代の稽古にて。黒帯の重みは、積み上げてきた年数の重みだ
友達がクラブ活動や部活に精を出している間、僕は道場にいた。
小学生や中学生の子たちに空手を教えていました。
でも父の道場なので、ずっと無給のボランティアです。
大学生になってからは、自分のお小遣いでガソリン代を出して隣町の支部まで車を運転して指導に行くこともありました。
正直、そこはちょっとしんどかったですね(笑)。
空手界の構造的な問題というか、武道の世界全体にある話だと思うんですが「武道でお金をもらうのはおかしい」という文化がある。
父はまさにその思想の持ち主で、清貧を美徳としていた人でした。
そしてその影響は僕にもしっかり刷り込まれていました。
「好きなことでお金を稼ぐのは、なんか違う」という感覚が、ずっとどこかにありました。

格闘技が日常だった幼少期。道着より先にベルトを着けていた(笑)
僕が20歳のとき、道場が静かに閉まった
父の道場の本部が閉鎖になったのは、僕が20歳のころでした。
特に大きな出来事があったわけじゃない。
じわじわと道場生が減っていって、気がついたら本部は閉まっていた。
支部はそれぞれの支部長に引き継がれたけど、最終的には自然消滅していきました。
僕はその後も時々、車を自費で走らせて残った支部に顔を出していました。
でも道場生はどんどん少なくなっていって、最後にはほとんど誰もいなくなってしまった。
あのとき感じた喪失感を、うまく言葉にするのが難しい。
子供の頃からずっとそこにあった場所が、ある日ふっとなくなる感覚。
道場生たちも父が引退するのをみんな寂しがっていました。
それだけ父を慕っていた人たちがいたのに、その場がなくなってしまった。
今頃、昔の道場生たちは元気にしているだろうか。
たまに思います。
行き場を失った僕は、大学でキックボクシングを始めました。
空手とは違う格闘技でしたが、打撃の感覚はすぐに馴染んだ。
先輩たちからボクシング系のパンチを教わりながら、今度は自分が後輩や国際学生たちに英語で格闘技を教えるようになりました。
これが思いのほか楽しかった。
APUは留学生が多い大学だったので、英語で格闘技を教える機会が自然に生まれていました。
言葉が違っても、体の使い方を伝えて「できた!」という顔を見る瞬間が、たまらなく好きだった。
「いつかこれでお金をもらって仕事にできたら、ものすごく幸せなのにな」
そう思っていました。
もちろん当時は、それが本当に仕事になるとは、これっぽっちも思っていなかったけれど。
楽しくて楽しくて、みんなとどんどん仲良くなって、サークルのメンバーもどんどん増えていった。
でも、どれだけ時間を使っても1円のお金にもならなかった。
それが悔しくて、僕はキックボクシングサークルに行くのをやめて、Webマーケティングの起業に時間を全部注ぐことにしました。
そうしたらサークルのメンバーが減っていって、国際学生たちから「Gin! 来てよ!」と何度も言われた。
あのとき離れたことは、今でも少し後悔しています。
でも同時に、あの悔しさがなければ今の自分もいなかったとも思っています。
「好きなことでちゃんと稼げる形を作る」——これが僕の根っこにある動機のひとつは、あのサークルの原体験から来ているのかもしれません。
「集客を知っていたら、父はまだ道場を続けられたんじゃないか」
道場が閉まったとき、僕の頭の中でずっとぐるぐるしていた問いがあります。
「もし父がWebマーケや集客を知っていたら、道場はまだ続いていたんじゃないか。」
あれだけのカリスマ性があって、あれだけ強くて、道場生に愛されていた人が、それでも道場生は減り続けた。
技術はある。
人望もある。
でも集客の仕組みがなかった。
その事実が、僕のどこかに刺さったまま抜けなかった。
そして同時期に、母方の祖父・松本巧の姿が頭に浮かびました。
父と祖父は、お金に対する考え方がまったく逆でした。
父は清貧。
母も地域のNPOで働く保育士で、同じように清貧思考です。
一方、祖父は徹底した商売人でした。
「稼がなければ家族を守れない」という原体験から、死に物狂いで知恵を出し続けて中津一の繁盛農家になった人です(祖父の話はこちらの記事に詳しく書いています)。
祖父が晩酌しながらよく言っていた言葉があります。
「商売は高単価でやってナンボ。ちゃんと稼がないと家族を守れない。」
その言葉と、道場が閉まったという事実が、僕の中で繋がりました。
「稼いでいい。むしろちゃんと稼がないといけない。」
清貧の家に育ちながら、商売人の祖父の背中を見てきた僕が出した結論がそれでした。
「好きなことで生きるには、ネットで起業するしかない」
大分県杵築市山香町という、かなりの田舎で育った僕には、当時選択肢が見えなかった。
格闘技やトレーニングで食っていくなんて、都会の話だと思っていました。
田舎の周りには、それで生活している人なんて誰もいなかった。
だから僕の出した結論は「インターネットで起業して稼ぐしかない」でした。
好きなことを続けるためにはお金が必要で、そのお金を稼ぐにはWebマーケティングを学ぶしかないと本気で思っていました。
そこからアフィリエイトを始めて、SEO、コピーライティング、広告運用と学んでいきました。
都会に出て、初めて気づいた世界
大分→大阪に行って、キックボクシングジムのトレーナーを始めてから、初めて気がつきました。
「トレーナーという仕事で、ちゃんと生きていける人たちがいる」という事実に。

キックボクシングジムトレーナー時代。道着からジムウェアに変わっても、格闘技への情熱は変わらなかった
田舎にいたときは、そんな環境も人も周りにいなかった。
それが当たり前の世界として存在していることすら、知らなかったんです。
視野が狭かったと思います。
でも環境がそうだった。
都会に出て、フィットネス産業の規模と可能性を肌で感じてから、自分の中の何かが変わりました。
「好きなことで食えない」は思い込みだったかもしれない。
「武道でお金を稼いではいけない」という父の清貧思考は、父の美学として尊重するけれど、それが唯一の正解じゃない。
場は死んでも、黄金の精神は継いでいく
父の道場は、もうない。
あの空間も、あの匂いも、道場生たちが揃って気合いを入れていた声も、物理的にはもうどこにも存在しない。
でも父から受け継いだものは、今も僕の中に生きています。
かたぎり塾でパーソナルトレーナーとして会員さんと向き合うとき。
初心者にわかりやすく体の使い方を伝えるとき。
身体の細かい動きを分解して教えるとき。
全部、父の道場で叩き込まれたことです。
ジョジョで言うなら「受け継がれる意志(黄金の精神)」みたいな感じです(笑)。
場は死んでも、黄金の精神は消えない。
そして帯刀家の因果という意味でも——実業家から始まって借金で全部失って、公務員として地道に返して、清貧の武道家の父がいて、その息子の僕が「好きなことをちゃんと稼げる形にする」という道を歩もうとしている。
なんか、繋がってる気がするんですよね。
Webマーケを学んで、MEOや集客の仕組みを作れるようになった今の僕が、もし父の道場の隣にいたなら、少しは違う結末があったかもしれない。
だからこそ、僕は今の場を潰すわけにはいかない。
かたぎり塾日吉店で集客の仕組みを作り、ちゃんと利益を出して、関わる人全員を幸せにする。
身体も健康にする。
父が守れなかった「場」を、今度は僕が守る。
それが僕の使命だと思っています。
母方の祖父に教わった「ナンバー1よりオンリー1」と、父から受け継いだ武道の精神。
この二つが、今の僕の商売の根っこにあります。













