開業して1年ちょい経ってみて、ぎんじろうの理念『体人物魂学』

ぎんじろう
はじめまして、感謝してます!

ギニーWebの帯刀銀次郎(たてわきぎんじろう)です。

 

ぎんじろうという名前でブログを書いてます。

 

お前誰だよ!とムカついたかもと思うので、自己紹介をさせていただきます。

 

僕は九州の田舎、大分県杵築市山香町の代々武家の家で育ちました。

 

僕の父ーー「ダディー」は、カイロプラクティックの整体師をしていましたが、剣道と、少林寺拳法と、極真空手の有段者で恐ろしく強い人でした。武道の達人で、トレーニングの達人でもありました。

 

武道家のダディーは、まだ5歳だった気弱な僕に実戦空手を教えてくれました。ダディーが直接経営してた空手道場で、強くなるための武道の技や筋トレの方法を教えてくれました。

 

ダディーの前に立ち、新品の白い道着に白帯を着けて、「セイヤッ!」と正拳突きや拳立て伏せをしたものです。

 

大きい鏡の前で何回もフォームを練習すればできない技はないと信じている人でした。

 

コツコツと繰り返し体や心を鍛錬すれば鍛えられない部位はないとも信じている人でした。

 

そして自分の大切な人を守れるように強くなることが何よりも大切だと考えていました。

 

僕が「武道家精神」と呼んでいるものを教えてくれたのも、ダディーでした。

 

本当に強い人とは、どんな相手でも倒せる人ではない。どんなに倒されても何度でも立ち上がり立ち向かえる人だ。

 

試合中に足の指がグシャッと複雑骨折しても最後まで蹴り続け戦ったり、肉体強化のためにデッドリフトやレッグプレス250kgを上げ素足で四駆のタイヤをドスドスと蹴り込んだり、精神修行のために真冬に山に籠り大木を叩き滝打たれをしたり、そういう生き方をする人でした。

 

ダディーはそんな武道家精神を実践し、大切な人のために鍛え続けるということを、僕が成人するまでの15年間をかけて僕に教えてくれました。

 

ダディーのおかげで、僕はこの考え方を使って、気弱ながらも自分や他人を鍛え続ける方法を確立しました。

 

ダディーが教えてくれた武道家精神という人生の教訓が僕という人間を育て、読者さまのようなWebマーケティング、株やFXのトレード、肉体改造の初心者の方と毎日仕事をするうえでの指針となっています。

 

鏡の前やPC画面の前で何回も練習し、コツコツと繰り返し体や心や頭を鍛えて、大切な人を守れるように強くなることの大切さを思い出してもらう。

 

僕が毎朝起きるのは、そのためです。

 

だから僕はこの仕事をしているのです。

 

僕は今株・FXのトレーダーをしています。そして自営業者(青色申告個人事業主)としてWebマーケティング業を経営しています。

 

大学4.5回生の24歳の時から小さな事業をやっています。

(最初は18歳のときにスモールビジネスと投資の世界に触れました)

 

インターネットを活用したスモールビジネスの事業です。

 

今2020年で僕は、25歳になりましたから、ギニーWebの屋号を開業して、1年ちょいです。

 

この事業で、主婦がパートタイムで1ヶ月毎日働いたときの給料分くらいの利益を毎月自動でコツコツと生んできました。

 

他には株・FXのトレード(制作物一覧に専用のブログがあります。スイングトレードと自動売買で取引してます。)

 

女性用育毛剤の代理販売、まつげ美容液の代理販売などもしてます。

 

証券会社の口座紹介、鍼灸治療院の集客アップのためのWebマーケティング、経営者にインターネットを使った利益アップのためのコンサルティングなんかも経験してます。

 

ちなみにギニーWebは、最近大分県から助成金をいただきFacebookの大分県内全域のフィードの広告にも出ました。

 

箇条書きでも軽く僕の紹介をしましょう。身震いがするほど興味持って欲しいので、相当変わってるの承知で書きます。

 

  • 大分県杵築市山香町の武士家系直系の出身
  • 源頼朝の一番お気に入りの家臣だった大友能直の末裔
  • 中山香村長やってた帯刀寅吉の玄孫(孫の孫)
  • こだわりが強すぎで空気が読めないASD(アスペルガーとゆー発達障害)
  • スモールビジネスやオンライントレードの自動化に成功。労働時間ほぼゼロで寝ていてもコツコツと収益がある
  • インターネットビジネスやオンライントレードを活用してる
  • ノートパソコン1台でそれを達成する
  • 資金も才能もない状態からスモールビジネスやトレードを学ぶことで稼げるようになる
  • 大学生なのに治療家、美容師、鍼灸院、経営者のコンサルティングを経験
  • キックボクシング、実戦空手、釣り、音楽(ベース、ギター、ピアノなど)、語学、占い、吉方位旅行が趣味
  • 好きなアーティストはOwl CityとBruno MarsとJamiroquai
  • 小学生の頃、実戦空手の国際全日本大会で3位になったことがある
  • 中学生の頃、税の作文で大分県知事賞を取ったことがある
  • 高校生の頃、英語スピーチコンテストで大分県チャンピオンになって、全国大会で文部科学省大臣の前で英語でスピーチしたことがある
  • 性格、思考、運命、学習、周波数のタイプから観る、ぎんじろう占いや才能分析で人の恋愛・結婚相性や勉強・仕事適性を占うことができる
  • 商売や経済の本を読み、その読んだ内容で友達と議論するのが楽しい
  • 稼いだお金で本や教材を買って、知識を高めている
  • 得た知識を使って商売に応用して利益を高めていく
  • 商売をコピーライティングから学んだので、言葉だけで利益を上げることができるようになる
  • 商売人の祖父母や大学OB・地元の起業家の先輩に触れることで自分の未熟さを知る
  • 楽しいことも辛いことも発展することで人生は充実していくんだと確信する
  • 自分の未熟さを知ると同時にプライドが折れて素直になる
  • 故にこれまでできなかったことを少しずつ克服して人生を発展できるようになる
  • 外国人の友人や教授と英語でコミュニケーションをして、情報の最先端に触れることができる
  • 700人以上が購読する投資メルマガを4年間運営etc

 

これが僕にとっての当たり前の日常です。

 

ゾッとするような変な生き方が多いかもしれませんね。

 

僕もゾッとする変な生き方だと当時思ってました。

 

ですが、昔から僕は才能があったとか、ビジネスや投資に詳しかったとかは全くなくて、皆さんのおかげさまで学習させていただいたからこそ上記の状態を達成しました。

 

色んなことを学んだり、色んな人に会ったりすると、世の中にはすごい先輩方がたくさんいることを知れまして、自分などまだまだ未熟だと恥ずかしい気持ちを実感する日々です。

 

インターネットビジネスで初めて、主婦がパートタイムで1ヶ月毎日働いたときの給料分くらいのお金を毎月稼いでしまったものですから、調子に乗ってる時期もありました。

 

ですが、すごい先輩方に会うと、そんな調子も消し飛びます(笑)

 

アニメONE PIECEでイーストブルーで最強だと思っていたルフィーが、シャンクスやレイリーに出会って、すごい強者な大先輩が世の中には居る。

 

世界の広さを知って、ゾッとする

 

そんな感じかもしれません。

 

ま、このように書いてますけど、僕はむしろ虚弱で発展できなかった時代の方が長いです。

 

0歳からずっと虚弱でヘッポコでした。

 

チェックテストしたら自分はASD(アスペルガー発達障害)でもあったと気付き救われる気持ちにもなりました。

 

それが原因で様々なコンプレックスを抱えていました。

 

みんなと同じように元気に過ごしたいけど、元気に過ごせないから孤独

 

頭やお腹が痛いのに痛いと言えないからつらい

 

そんなひ弱で引きこもりの子供でした。

 

免疫力もないし、体力もないからみじめ

 

コンプレックスと劣等感の塊です。

 

小中高の球技大会や体育で走ったり運動したりなんてのも常に緊張してました。

 

そんな体力もないし、中学校時代も不登校で、大学では虚弱体質で体調を崩してしまい、授業を休み単位を落とし留年した落ちこぼれ生活の情けない状態から、皆さんのおかげさまで起業して、何もしなくても、利益が勝手に生まれるホッとする生活に変化しました。

 

相当異質ですよね。

 

だいぶ変わってるなとゾッとしたかもしれませんが、前述したように世界は広いです。

 

僕にとってはその日常は当たり前なのです。

 

それをまずぼんやりと認識してもらって、その上で、このブログを読んでもらえたら嬉しいです。

 

このブログのコンセプトは、サイドバーにもありますように、『体人物魂学~いざ発展~』たいじんぶつこんがくと読みます。

 

何だそりゃ?としらけたかもですよね。

 

説明していきます。

 

体人物魂学とは

 

  • 身体(エネルギーや免疫や睡眠や栄養)
  • 人間関係(パートナーや家族や友達や仲間)
  • 物(お金や仕事や場所や持ち物)
  • 魂(感情や運気や徳や生きる意味)
  • 実学(使える情報や知識や思考や経験)

 

を指してます。

 

僕はその体人物魂学の充実度が高い状態を目指して生きています。

 

  1. 身体の充実
  2. 人間関係の充実
  3. 物の充実
  4. 魂の充実
  5. 実学の充実

 

この5つの充実度を上げていくというのが今現在僕が人生をより幸せにしていくためにやっていることです。

 

というのは、この5つは密接に関わってるからです。

 

健康な身体がなかったら、生活していくために、睡眠や免疫やエネルギーを犠牲にしてつらく働く必要があります。

 

だけど、そうなると、無理してみじめに働かなければいけないので、物も魂的な余裕もなくなります。

 

逆に健康な身体があれば、上記2つの役割は解決します。

 

健康な身体があるだけで、それは生きる意味や安心になるし、エネルギーや免疫が自動的に高まるやり方を知っていて、常に健康な身体を保つことで、それは、魂の余裕や安らぎも生むし、仕事を通しても、ホッとするお金や物や居場所を得ることができます。

 

身体に対する充実度が上がることで、魂の余裕と物の余裕も得て安心することができます。

 

人間関係面が悪い人だったら、元気があれば、楽しく関係性を直し救われたりもできるでしょう。

 

使える実学を学びたかったら、健康な身体があれば、実際に現場に出てうらやましいほどの良い経験を積むこともできるでしょう。

 

それがこの5つは密接に関わっているということです。

 

そして、このブログでは、僕の経験を交えた、本当の意味で身体をどんどん健康にする方法や人間関係を良くする方法や魂を成長させていく方法や学びを使えるようにしていく方法を書いています。

 

ぜひ興味ある記事からどんどん読んでください。

 

そして、僕がこのような活動をする上で、僕の過去の経歴を共有しておくと、より理解しやすくなるし、僕のブログの内容を理解しやすくなります。

 

なので、少しばかり僕の過去の物語を今から共有をしていこうと思います。

 

ーーーーーーーぎんじろう物語ーーーーーーーー

 

僕は、幼少期、小学校、中学校、高校、大学と、常に虚弱体質&ASD(アスペルガー発達障害)のわびしい状態で20年以上生きてきました。

 

幼少期~生まれて2日後に鼻からミルクを吹きこぼし救急車で運ばれて入院する

場所は大分県杵築市山香町の病院。

 

僕は帝王切開手術で救われて妊娠9ヶ月目に未熟児として生まれました。

 

なぜなら、母親の子宮内で頭が上で足が下に位置する逆子だったからです。

 

とりあえず無事に生まれてきたのは安心で良かったのですが、、、

 

生まれて2日後に栄養失調(低カルシウム血症と低血糖症らしい)で、救急車で大分県大分市の県立病院に1時間くらいかけて運ばれて、10日間ほど孤独に入院しました。

 

なんか知らんけど、ミルクを上手く飲めずに、盛大にミルクが鼻から溢れたそう(笑)

 

まさに「たらりーん!鼻から牛乳ー↓♫」を0歳児でやるという偉業を成し遂げました(笑)

 

ただ、これはあとから勉強して知ったのですが、人間の免疫の8割はこの生まれてすぐの最初の4~7日間の間に母乳をたくさん飲むことで腸内に善玉菌が蓄積されてできるらしいのです。

 

なので、僕はその期間、寂しく一人ぼっちで病院に入院して割と粉ミルクばかり飲まされたので、善玉菌も免疫も弱小で生き始めることになりました。笑

 

そんな感じで虚弱人生を切なくスタートさせました。

 

家の中に引きこもり片っ端から機械の分解をしまくる

なので、小さい頃から体調を崩しやすく、体力もなく運動も苦手だったので、幼少期はミニカーや機械などのおもちゃで孤独に遊びました。

 

ただ普通に遊んでも飽きてくるしおもしろくなかったので、特に家電や時計や電子機器などの中身を知りたくて機械の分解に怖いくらいにハマりました。

 

プラスドライバーでラジカセとかを分解しまくって親に怒られて切ない思いをしたのをよく思い出します(笑)

 

他にも保育園や幼稚園では、スコップを持って砂遊びや泥遊びをして安らぎを得ていました。

 

泥団子作ったり、めっちゃ穴掘りとかの作業を孤独にやってました。

 

他にも、広告の紙で剣やベルトを作ったり、紙でアクセサリーを作って安らぎを得たりもしました。

 

ただ、男の子に大人気の球技とかはしんどいのでうらやましくても全然できませんでした。

 

僕には一歳年上の兄がいるのですが、兄が公園やグラウンドなどで男友達と野球をして遊ぶのも、一緒に混ざって遊ぶことなど怖いしひ弱すぎてできませんでした。

 

サッカーや野球やドッジボールやるのはマジできついので嫌気がさしてました。

 

代わりにぶら下がるだけで楽できる鉄棒では割と遊びましたけど(笑)

 

ただ父親が極真空手の師範だったので、身体を強くするためにも僕は5歳から兄と一緒に父の道場で実戦空手を心細く始めさせられました。

 

小学生~41度の高熱を出し10人に1人の子供が死ぬ脳の炎症で入院する

小学生になり、地元の公立小学校へ通うようになりました。

 

元々虚弱なので風邪を引いて熱を出したり、頭痛でよく学校を休んだりもしましたが、あこがれた新しい友達が一気に増えて面白かったです。

 

くわえて登下校で片道2kmを歩くようになったので、虚弱にしてはよくがんばって歩いたと思います。

 

そして毎日授業中にお腹が痛くなって、トイレに行きたくても行きたいと言えずに我慢するやるせない生活を送ってました。

 

お腹が弱くて痛くて、頭の中はトイレのことでいっぱいでつらく学校の勉強どころではありませんでした。

 

そんな中、無理が溜まったのか、6歳のときに髄膜炎という脳の膜全部が炎症する病気にかかってしまいました。

 

いきなり41度の高熱を出し、父親の車の荷台に布団ごと寝かされたまま救急搬送され地元の病院に10日間ほど入院しました。

 

この病気は結構怖くて、10人に1人の子供が死んで、2人に1人の子供が言語障害や身体の麻痺などの後遺症が残る病気らしいです。

 

僕は運良く障害が残らず完治したのでホッとしましたが、このときは脳が炎症してたので全身が麻痺し、言葉も上手く発せられなくなって、子供ながらに哀れに死ぬかと思いました。。

 

検査のために背中の腰骨の脊髄にボールペンくらいのかなり太い注射器を10分ほど刺され、冷や汗をかきながら身震いがするほどの激痛に必死に必死に耐えたのを覚えています。

 

病院では点滴をつけられ、39度~40度台の高熱が1週間ほど続き、自分の足では動けなかったので、移動するときはナースさんや家族に車椅子を押してもらってみじめに生活してました。

 

1日にトータルで10回以上、点滴の付け替えや注射をされたので、腕が蜂の巣になって、かなりつらくてしんどかったです。

 

ただなにより、一番つらくしんどかったのは、このとき僕の母が妹を妊娠していて、車で1時間ほどかかる別の街の病院に入院していたので、兄や父親はそちらの病院に看病に行ってて、父や母に看病やお見舞いをしてもらえなかったことでした。

 

病院では父方の僕の祖父母やナースさんが優しく看病してくれていたので安心でしたが、僕が入院していることは母と妹の命のためにも母が退院するまで秘密にさせられていたので、電話でも母親に本音が言えなくて、当時はかなりつらくやるせない気持ちでいっぱいでした。

 

未だに当時のことを思い出すとつらかったので泣いてしまいます。

 

けど、代わりにナースさんが母親のように優しく看病してくれたので安らげて良かったです。

 

戦場の天使、とはまさにこのことですね。笑

 

入院生活の後半はありがたいことに身体の麻痺もなくなり、熱も下がって楽になりホっとしました

 

談話室で仲良くなったおじいちゃんおばあちゃんのいる病室に遊びに行ったり、仲の良い友達がお見舞いに来て、学校の勉強を教えてくれたので楽しかったです。

 

そして皆さんのおかげさまで、無事に後遺症も残らず完治して退院でき救われました

 

虚弱がコンプレックスすぎて筋トレで肉体作りを始める

それからは、普通の小学校生活に戻り、頭痛や腹痛がひどいときは無理せず保健室に駆け込み、相変わらず球技などのスポーツは嫌気を感じたまま、休み時間は教室か砂場か鉄棒か図書館で孤独に過ごしてました。

 

ただ、普通の男の子と同じようにグラウンドでは元気に遊べないし、抗生剤に次ぐ抗生剤の投与で腸内環境が破壊されて、乾燥肌で肌荒れとかゆみもすごかったので、休み時間は寂しく一人ぼっちでした。

 

なので、図書館の司書の先生と色んな話をするのが好きで、仲良くなって色々とおすすめの本や漫画を教えてもらって、それを読んでまた会話して学んで、安らぐ、を繰り返してました。

(特に夏の時期は図書室はずっとクーラーがかかっていて超涼しかったので。笑)

 

他にも休み時間に、砂場でモアイ像などの芸術的な作品を作ったり、教室で過ごしてる女の子の友達とノートを使って言葉遊びをしたり、お絵描きしたり、詩とか作ったりして安らいだりもしてました。

 

あと、空手の影響で鉄棒で筋肉番付・SASUKEごっこなどの筋トレをしたりして遊んでました。

 

肉体づくりも面白かったので、虚弱がコンプレックスだったからこそ筋トレにもハマりました。

 

実は子ども用プロテインとかも買ってもらって、密かに飲んでました(笑)

 

そして僕が小学校のときはちょうど空手やK1や総合など格闘技ブームだったので、あこがれの大晦日のテレビスター選手みたいになりたいなと格闘技にものめり込みました。

 

試合作りや戦略作りが好きで、実戦空手の試合やキックボクシングの試合にも頭脳を使って出場して、何とか上位入賞してました。

(実戦空手の国際全日本大会でMAX3位になったことがあります)

 

ちなみにこのときの必殺技は、ゾッとするかもしれませんが、変速上段回し蹴りと回転上段飛び後ろ回し蹴りでした。

 

なので、当時父親からは将来はプロの格闘家になれ、と言われてました。

 

ただ元々体が弱いから、裏では空手の修行や稽古は怖い身震いがするし、本当に本当につらくて大変でした。

 

ゆえに、人の痛みがよくわかるし、つらいことや大変な目に合ってる人を見ると、どうしてもほっとけない。

 

病んでる人がいたら癒やしてあげたいし、安らぎの方を与えたいし、結局格闘家向きではない性格がここで生まれました。

 

とにかく手と頭を使って「何かを作ること」に没頭する

ちなみに小学校で一番安らぎを感じ好きだった勉強科目は、図工でした。

(他には家庭科の裁縫と道徳も好きでした)

 

逆に一番身震いがして嫌いだった科目は、体育でした。

 

体育は言わずもがな、虚弱でただの苦痛でしかなかったので、つらいし強烈な嫌気を感じてました。

 

ただツイてることに、運動会は空手の怪我で包帯生活になって何回も休むことができてホッとしました(笑)

 

たぶん小学校6年間のうちの運動会の半分は休んでると思います(笑)

 

なので、手と頭で作業ができる図工が発展して、工作慣れして機械の改造とかに、かなりハマり安らぎを得てました

 

たとえば、僕が6歳の誕生日のときに買ってもらった仮面ライダー2号の目覚まし時計があったのですが、それを分解して配線を付け替えて別のオーディオスピーカーに繋いだりしました。

 

そして、その繋いだオーディオスピーカーだけを寝室に置いて、目覚まし時計本体を隣の部屋に置いて、朝が弱い僕でも絶対に目が覚める怖い装置とかを作っていました(笑)

 

他には公道を走れる本物のバイクがうらやましくて、20インチのマウンテンバイクの自転車を改造して、電動バイクのモーターを移植して電動自転車にしたり(笑)

 

他にも小学校のときに裁縫が好きすぎて、自分でオリジナルのダメージジーンズとかも作り安らぎを感じてました。

 

ホームセンターで紙やすりを買って、ジーンズを擦って糸を出して、裏地にあて布をして、それをミシンで縫い付ける。

 

そしてその恋しいダメージジーンズを履いて、小学校に行ってたりしました。

 

同様に、ミシンを使った裁縫でカスタムメイドのオリジナルアウターとかも作って安らぎを得てました。

 

他にも、恥ずかしいですが上下1万円くらいする自衛隊顔負けの本格的な迷彩服を来て小学校に行ったこともあります(笑)

 

他にもゾッとするかもしれませんが、面白いエピソードとして家の庭にテントとブルーシートを張って、自分だけの秘密基地を作ってそこに机とベッドと電気スタンドと屋外用延長コードを持ち込んで、1年くらい生活してました。

 

そんな僕だったのですが、小学校時代はLEGO(レゴブロック)に一番ハマって、家や車や船や飛行機などをたくさん作り安らぎを得ました。

 

これは小学校史上最大ののめり込み具合でした。

 

1回説明書のモデル通りに作って、その後、完全オリジナルでハマーとかジープとかサファリとかモンスタートラックなどの車を作るのが最高に楽しかったです。

 

同様にプラモデルにもハマりました。(これはちょっとだけですが。)

 

他にも、バイクとかスポーツカーとか4WDとかホバークラフトとかヘリコプターとかのラジコンにハマりました。

 

もちろんラジコンも並列を直列電流に変えたり、バッテリーを2個づけにしてパワーアップさせたり、バネを変更してリフトアップしたりと、ゾッとするような改造してました。

 

とにかく改造や新しい仕組みを作るのが大好きで安らぎを感じてました。

 

他にも母方の祖父母が果樹園をやってるので、その祖父母の家に遊びに行ったときは、毎回あこがれのトラクターを農園内で運転させてもらったり、工具を使って工作したりして遊んでました。

 

中学生~大親友の影響で釣りと音楽と釣具の改造と楽器の改造にハマる

小学校卒業後は、あこがれ不安な気持ちとともに地元の公立中学に進学しました。

 

中学生になってからは、魚釣りにハマり安らぎを得ました。

 

というのも、中学1年のときに同じクラスメイトとして出会ったF君という大親友が、大の魚釣り好きだったからです。

 

毎週末のように、F君と一緒に自転車を漕いで、川や野池にブラックバスを釣りに行きまくり安らぎを感じてました。

 

もちろん夏休みも肌が真っ黒に日焼けするくらい毎日のように釣りに行き安らぎを得てました。

 

くわえて釣具の改造にもゾッとするくらいハマりました。

 

自分でリールのベアリング(パーツ)を移植したり、釣り竿のガイド(輪っか)を移植したり、魚が釣れやすくなる仕掛けのルアーを作ったりと、リールやルアーや釣り竿などのハンドメイド制作にもゾッとするくらいハマりました。

 

なので、この頃は将来ルアービルダーになろうとあこがれを抱いてました。

 

他にも、大親友のF君は吹奏楽部でベースとドラムをしていたので、その影響で音楽に怖いくらいにハマりました。

 

僕はF君に楽器の演奏を教えてもらって、ベースギターに怖いくらいにハマりました。

 

ちなみに当時F君はドラムをメインで叩いてました。

(現在、F君はジャズベーシストをやってます)

 

その楽器の改造やアンプスピーカーの改造などにもゾッとするくらいめっちゃハマりました。

 

そしてバンドを組んで、バンド活動も楽しみました。

(残念ながら中学校の文化祭では、バンド活動が禁止されてて演奏できませんでしたが。)

 

夜は白人アメリカ人英語教師と空手、昼はパワハラ日本人英語教師で不登校

 

そんな中、僕が中学2年のときに、身震いがするくらいに人生を変えるほどの大きな出会いがありました。

 

それは、身長183cmの当時23歳の白人金髪アメリカ人の青年のあるALT(外国語指導助手)の先生との出会いでした。

 

彼は初対面の英語の授業で、うらやましいくらいに背が高い上に日本の武道に興味があると言っていたので、僕は幼い頃から空手をしてたこともあり、すぐに声をかけて仲良くなりました。

 

そして僕は「5歳から空手をやっていること」「父が空手の師範であること」を彼に話し、良ければ一度父の道場に見学に来ないかと彼を父の空手道場に招待しました。

 

すると彼は見学をしたのち、実際に入門することになりました。

 

そして毎週2回、夜の7時~9時の時間に、彼と一緒に僕は空手の稽古をするようになりました。

 

ただ、当時彼は日本に来たばかりで日本語がほとんど話せなかった上に、僕の父もほとんど英語が話せなかったので、僕が心細いながらも英語の通訳をすることになりました。

 

そこで英語を恋しく独学で勉強したり、彼から英会話を教えてもらったりして、おかげさまで英語力をどんどん高めることができました。

 

そのおかけで僕はこのときからめちゃくちゃ英語が好きになります。

 

僕の中学2年~3年の夜は、彼がアメリカに帰国するまで、合計2年ほど一緒に稽古したり、身震がするなか大会に出場したりしたので、本当に楽しい日々でした。

 

ただ、中3になって、担任の教師がムカムカする嫌悪感を抱かせる暴力教師&英語の教師が超絶にムカつくパワハラ教師だったので、昼間の学校は不登校になりました。

(厳密には中2の冬に僕の父方の祖母が亡くなって、やるせなかった僕は体調不良になり、その期間に溜まりに溜まった勉強や宿題に追いつけずにいた状態で、春休み明けの中3の最初に理不尽に学年主任から咎められムカつく居残りを強制されたのがきっかけでした)

 

ちなみに当時僕のいたクラスは、悔しいことに生徒がみんな大人しくて憤ることもない良い子たちばかりだったゆえ、担任教師や英語パワハラ教師は怒るたびに生徒に平気でビンタしたり罵倒するような、理不尽な怖いクラスでした。

 

そんな理不尽でみじめな対応を受けながら、皆黙ってその教師たちに従っていたので、僕は悔しさ憤りで耐えきれなくなりました。

 

なので、クラスで唯一、孤独に1人だけ中学校に通うのをやめました。

 

そして、当時調子に乗ってる憎くムカつく教師たちに思いっきり反抗しました。

 

この行動は他の生徒たちからうらやましがられるほどにかなり異質だったと思います(笑)

 

しかし中学卒業後は高校に進学したかったし、高校受験も控えてたので、友達にノート借してもらったり、家で一人で参考書を見たりしながら、独学で1日10時間とか勉強するようになりました。

 

そして試験日だけ保健室登校して、保健室で試験を受けてました。

 

担任に会いたくなかったので、ホームルームの時間はトイレや保健室で過ごすようになりました。

 

もちろん英語の授業も、そのパワハラ日本人英語教師が嫌いだったので行きませんでした。

 

ただ、独学で猛勉強してたので、英語のテストは90点とか取ってました(笑)

 

このときに、僕はただ受動的に嫌々必要もない授業を受けて身につける勉強ではなく、自分で積極的に使える情報や知識を身につける実学の基礎ができました。

 

他にも、社会の公民の授業は好きだったので、週1ペースくらいで、社会の授業がある日は登校してました。

 

そして、夏休みには税金の作文を書いて、おかげさまで大分県知事賞を取ることができました。

 

ここでも、僕は積極的に好んで自分に必要な授業は受けて、使える思考や経験を身につける実学の基礎ができました。

 

ただ、そんな中、僕自身、高校受験前の不登校は、孤独でつらかったし長く迷走しました。

 

不登校の裏では、引きこもりっぱなしで感情の起伏がなくなりました。

 

楽しいことを全く楽しいと感じない。

つらいことも全くつらいと感じない。

悲しいことも全く悲しいと感じない。

嬉しいことも全く嬉しいと感じない。

 

そんな無感情の生きた屍みたいな状態でした。

 

当時は感情の波が完全になくなりました。

 

当時は、夜も眠れず、朝に寝て昼に起きてました。

 

今思えば、たぶん鬱だったんだと思います。

 

このときは釣りも音楽も人生も全く楽しいと感じませんでした。

 

もういっそのこと風邪薬を大量に飲んで死のうかなとも思いました。

 

「なぜ自分は生きているのか?」をひたすら自問自答して、哲学書やスピリチュアルの本を読みまくりました。

 

しかし、親友のF君は毎朝の登校時と、毎日部活終わりの下校時に学校で配られた僕の分のプリントを持って、僕の家に顔を見せに来てくれていました。

 

なので、家に来てくれた彼にせめてものお礼としてチャーハンを作って振る舞うことが僕の生きがいでした。

 

このF君のおかげで僕はなんとか踏みとどまって若くして命を絶たずに済みました。

 

そして、高校受験が近づいて、僕は中学卒業後は工業系の進路に興味を持ちました。

 

なぜなら、幼少期から手と頭をつかって「何か形のあるものを作る」のが好きだったからです。

 

なので、高校進学は機械科のある工業系を目指すことにしました。

 

そして将来は機械系のエンジニアを目指していました。

 

猛勉強の高校生活と大分県英語スピーチコンテストで優勝

中学校を卒業後、僕は自宅から最も近距離の工業科系列の機械コースのある、総合学科の公立高校に進学しました。

 

総合学科の高校は、高校に入学してから、色んな系列の体験授業を受けたあとに、商業科系列コースや工業科系列コースや普通科系列コースに分かれて、勉強していく高校です。

 

僕は入学当初は、その中の工業科系列コースに進む予定でした。

 

が、ここでその当初の僕の人生計画が崩れました(笑)

 

というのも、工業科系列の機械コースの体験授業を受けたときに、工業科系列の先生が強面ばかりでかなり怖くて、中学時代の暴力&パワハラ教師のトラウマもあり、その機械コースにどうしても進むことができませんでした(笑)

 

結果、僕は普通科の国際文化系列という語学を学ぶコースに進むことになりました。

 

なぜかというと、そのコースの担当の先生が優しい女性の先生だったということと、僕自身、英語も好きで得意だったからです。

 

小学校時代のナースさんといい、中学校時代の保険の先生といい、高校時代の優しい英語の先生といい、僕は本当に女性のチカラに救われてきました(笑)

 

ちなみに父の道場で空手もしながら、バンド活動の延長で高校ではベースギター担当で音楽部にも1年だけ入ってました。

(しかし音楽部は2年になったときに、軽音部門がなくなったのでそこで引退しました)

 

ちなみに高校生の時は、失恋しまくって悔しかったので、なんか空手の練習をたくさんして一般部(大人)の大会とかに強い自分に発展し出場して上位入賞してました(笑)

 

同時に教えることもすごく楽しんでやってました。

(子供から大人まで実戦空手を教えたり、後輩に英語を教えたりするのにハマってました)

 

そこから僕は本格的に語学に目覚めることになりました。

 

中学時代を取り戻すかのように、学校でも家でも国際文化系列コースの勉強を猛勉強しました。

 

他にも高校時代は何人か女の子とデートや恋愛もしました。

 

が、僕が未熟だったのでMAX3ヶ月で関係が終わりました(笑)

 

失恋しまくりでした(笑)

 

そんなこんなで、1日6時間の英語だらけの授業の日や、週に2時間の中国語の授業なんかもあったりして、とにかく語学にハマりました。

 

そこで、英会話や中国語などの語学を通したコミュニケーションスキルのアップにハマりました。

 

もちろん高校時代のALTの先生ともかなり仲良くなりました。

 

高校時代のALTの先生は、南アフリカ出身の金髪白人女性の先生だったのですが、作家を目指してる女性ゲーマーというスペックの先生でかなり面白かったので、毎週のように放課後に英会話しに行っていました。

 

そしたら英会話の発音指導や文章添削までしてくれるようになりました。

 

その結果、僕は高2で初出場した大分県の英語スピーチコンテストで優勝することができました。

 

その後、東京で開催された全国大会にも大分県代表として出場して、文部科学省大臣の前で英語スピーチもしました。

 

が、全国大会は東京の人混みと大気にやられて、風邪引いてむせながら英語スピーチをしたので敗退しました(笑)

 

沖縄県に英語留学したら、そこで6人のAPU現役大学生と遭遇

その後、英語スピーチコンテストの実績がきっかけで、沖縄県主催のアジアユース人材育成プログラムという、アジア14カ国から55名の高校生が沖縄に集い、英語だけでエネルギー問題について3週間共同生活しながら学ぶプログラムに、九州代表として選出され参加しました。

(沖縄県外ブロックの日本人の高校生は合計で13人しか参加できないやつでした)

 

そして、僕は高3の夏休みに旅費や宿泊費沖縄県持ちで、21日間沖縄に英語留学しました。

 

そこで本当に本当に驚くべきことに遭遇しました。

 

それというのが、そこで出会ったプログラムの各グループにサポートでついてた、6人の大学生の外国人チューターがみんな立命館アジア太平洋大学(APU)の現役大学生でした。

 

ゆえに僕は彼らに自然と導かれて、高校卒業後はそのままAPUに進学することになりました。

(もともとは県外の国際系の大学に進学しようかなと考えていましたが。)

 

そのおかげで世界基準の学びのやり方を体感して、プレゼンテーションや、ディスカッションや、グループワークが好きになりました。

 

特に、パワポ作りやプレゼン作りの部分に一番楽しさを感じました。

 

他にもそこでエネルギー問題や環境問題を学んだことで、環境保全やボランティアにも目覚めることになりました。

 

ゴミ拾いや委員会活動、イベント活動などに目覚め、課外活動が大好きになりました。

 

結果、高3のときは文化祭実行委員長というリーダーをやって、全校を巻き込んで最後の文化祭の企画・運営・スタッフのマネジメントなんかもやりました。

 

そのときに商業系列コースの友達から、個人的に動画編集を教えてもらって動画作りをしたのが楽しかったです(笑)

 

他にもそこで新しい世界を見たことで、読書にもハマりました。

 

これは高校の司書の先生が仲良くしてくれたおかげでもあるのですが、色々な本を紹介してもらって、本も大好きになりました。

 

特にこのときは、読んでいた本の中の影響で、社会起業家の生き方に興味を持ちました。

 

APU(立命館アジア太平洋大学)で見た帰国子女エリートと、リア充の巣窟

大学に進学してからは、外国人の先輩や先生や友人のおかげで僕もよりグローバルになりました。

 

沖縄でお世話になったアジアユース人材育成プログラムのチューターだった国際学生の先輩の1人が、グローバルビジネスサークルの副代表をしていたので、僕もそこに参加しました。

 

そしてビジネスの勉強や高校生時代からの影響で何かを人に教えることにハマってました。

 

他にも、ベトナム武術サークルやキックボクシングサークルで格闘技を習いながら教えたり、英語が苦手な日本人の友達に英語を教えたりもしてました。

(ちょうどこの時期に父が空手道場を師範代に譲ったので、僕も自動的に空手を引退することになりました)

 

そして、入学当初は全然友達がいなかったのですが、そこで人間関係の輪を拡げるのに成功しました。

 

学業面でも、大学1年のときは環境・開発学を勉強していて、経済格差や発展途上国のNGO支援などに興味を持ちました。

 

大学1年の終わりの長期休暇では、ちょうど東北大震災後の3年後に他大学の医学部の人に誘われて、一緒に東北の被災地に訪れボランティアしたりもしました。

 

しかし、僕がいた大学は私立の国際大学だったので、複数言語がペラペラの帰国子女エリートや、大学生で高級外車に乗り毎月のように海外旅行や海外留学に行っているようなお金持ちのリア充がたくさんいました。

 

なので、僕はふつーにバイトしてサークル行ってお金を使って飲み会して留学するような大学生活を過ごしたら、語学面や留学経験面や経済面では、彼らに勝てないだろうなと思いました。

 

なぜなら、体力でも学力でもすでに彼らに劣ってるし、語学面や留学経験面や経済面でもすでに彼らに劣ってたからでした。

 

なので、僕は彼らとは違う道筋でスキルアップしようと試みました。

 

そんなこんなで、大学2年のときはまずは大学の授業で教授や学生をサポートする、TA(ティーチング・アシスタント)というバイトをやってました。

 

なぜなら、教えることで自分の学びが加速すると思ったからです。

 

大学では、そんな感じで2回生まではバイトしながら環境・開発学を専攻して勉強していました。

 

が、僕が当時学んでいた環境学や開発学は話の規模が大きすぎて、あまり実生活に活かせず面白くなくなってきたので、大学3年の20歳から学外の放送大学にオンライン留学して、金融やビジネスも勉強し始めました。

 

実際に投資のオンラインスクールとかにも入って、FXトレードの勉強と個人ブログで情報発信もやり始めました。

 

大学休学~投資やスモールビジネスとの出会いと失敗・挫折の連続

そうこうするうちに、僕は実際に投資やビジネスの経験・スキルを高めたいと思うようになりました。

 

なのでもっと実社会に役立つ学びを深めたいと思い、3回生の秋から2年間大学を休学しました。

 

当時、周りのほとんどが海外留学のために休学する中、投資やビジネスを理由に休学したのは僕くらいでした(笑)

 

当時大学の休学ガイダンスで、同じ休学理由の人を探してもそんな人はいませんでした(笑)

 

ここでも、かなり異質だったと思います(笑)

 

1年目は投資の勉強のために株とFXのトレーダー、2年目はインターネットビジネスの勉強のためにWebマーケティングの会社で業務委託でコピーライターをしてました。

 

投資に関しては資産作りのためのトレードを実践したので、かなり金融や会計の勉強になりました。

 

ビジネスに関しては、Webサイトやブログ作りにめちゃくちゃハマりました。

 

HTMLやCSSなどのコーディングもワクワクしながら徹夜してやってました。

 

やっぱり作るの好きだな自分、とここで気付きました(笑)

 

ただ、当時HTMLやCSSコードを書いて、広告を貼っても、それだけだとサイトに全然お客さんも集まらないし、商品も全然売れず、全く利益にならないので挫折しました。

 

ちなみに、休学中は在学時代に毎月銀行口座に振り込まれていた奨学金も全て止められ、お金もなくカツカツでかなり貧乏な生活を送っていました(笑)

 

これが僕のWebビジネスでの人生最大のどん底の失敗でした。

 

なので、SEOやセールスライティングやオウンドメディア運営などを含むWebマーケティングを本格的に学ぶことにしました。

 

当時の業界トップWebマーケターの福岡セミナーに参加して、インターネットで文章だけで物を売るコピーライティングという技術を教えてもらいました。

 

その後、当時のWeb業界トップのコピーライターが経営していた横浜のWebマーケティングの会社で業務委託のコピーライターとしてテレワークで働かせてもらいました。

 

そこでは1週間で1万字の文章とか書かされていたので、かなりライティング力を鍛えられました(笑)

 

この時期は1年半、毎朝1時間~2時間セールスレターを写経して、午後からはコンテンツをリサーチ&執筆&編集していたので、まさに修行の日々でした(笑)

 

同様に、個人的に知り合いだった関西の治療家さんのWebメディア作成やセールスレターやチラシなどもたくさん制作して、少しずつ集客や利益の実績を上げる成果を出せるようになりました。

 

他にも、心理学や脳科学や教育学や腸内デトックスやハーブや東洋医学や栄養学の健康知識も、当時のコピーライティングのメンターから学びました。

 

Webマーケティングビジネスに関する書籍や教材にも、積極的にお金を使って、どんどん学びを深めていきました。

 

そこでリアルな経済や金融や財務、セールスコピーライティングやWebマーケティングの仕事のノウハウやスキルを身につけました。

 

大学復学~起業して収益発生そして、身体面は健康へ

そして22歳で大学に復学して、復学後は商売で大事なホスピタリティーやマーケティング・会計などの興味深い勉強ができる観光学専攻に心機一転して変えました。

 

そこで新しく大学の観光学で学んだこともリアルに活かそうと、母方の祖父母の経営する大分県内の観光農園で梨やぶどうやワインを売ったり。。

 

島根県の山奥に2週間住み込んで年末年始のスキー場で外国人に英語でカレーを売ったり。。

 

岡山県の川沿いに1ヶ月間住み込んで顧客満足度西日本一のホテルで関西人向けに地酒やビールも売ったりもしました。

 

その後、24歳で自営業者としてWebマーケティング業で起業しました。(青色申告個人事業主に)

 

同時に、Webマーケティングで少額で外注ライターを雇ってトレンドサイトを作ったり、自社メディアを作って証券会社の口座開設を代理販売したり、Facebookにお金を払って広告出稿をして女性用美容品を代理販売したりして、利益を蓄積していきました。

 

他にも「2019年度学生向けビジネスモデル構築起業家教育プロジェクト」では大分大学・大分芸術短期大学・APUの参加学生の選抜代表として、大分県から助成金をもらったりもしました。

 

そして今では皆さんのおかげさまでインターネット上に仕組みを作って、主婦がパートタイムで1ヶ月毎日働いたときの給料分くらいの利益を毎月出せるようになりました。

 

虚弱体質で体調を崩して、単位を落とし留年した状態から、皆さんのおかげさまで起業してネットだけで利益が勝手に生まれ、体調面で無理せず過ごせる生活に変化しました。

 

今はハーブやサプリメントにも積極的に投資してるので、おかげさまで体も以前より健康になってきました。

 

そして大学5.5回生兼起業家の25歳の今に至ります。

 

最近はプログラミングにもハマっていて、その勉強も大学でインド人とアメリカ人のプログラマーの先生たちから習いながら1年ほど継続しています。

 

マーケティングとプログラミングはかなり面白いので、僕は今後も継続して自主的に、Webメディア運営・制作等を通してこの領域の知見をさらに深めていきたいと思っています。

 

ちなみに、制作物一覧にページに、僕がこれまで作ったコピーライティングやWebマーケティングの制作物やプログラミングの制作物を一部載せてるので、興味があれば閲覧してくださいね。

 

ビジネスをやって得た身体以外の人魂物学

このようなビジネス経験は、知識をベースとした思考、さらには、使える情報やスキルなどの実学を得たから、おかげさまで実現することができました。

 

そして、それはおかげさまで圧倒的にチャレンジングな運や人脈や仕事になりました。

 

体人物魂学の人と物と魂を充実させられたのです。

 

そして、結局魂に余裕がないと、それは身体の不調にもつながります。

 

実際、現在僕の身体は調子がいいです。

 

充実した発展ができているからだと思います。

 

睡眠や免疫やエネルギーを犠牲にして無理して肉体労働したり、学校で嫌な勉強ばかりしていたら、ストレスやばかったので、精神的におかしくなってたかもしれません。

 

さらに最近は、医学も学んでおります。

 

西洋医学と東洋医学ともに学んでいます。

 

西洋医学では、栄養学、脳神経科学、解剖学、生物学などを学びつつ。

 

東洋医学では、アーユルヴェーダ、中医学、ユナニ医学、シッダ医学、鍼灸、キネシオロジー、整体、ツボ、カイロプラクティックなど代替医療だろうが、なんだろうが、選択肢に入れて学んでおります。

 

学んで良い結果が出たものを友人にも実践してもらって、体質改善の結果が出てるものもしばしばです。

 

西洋も東洋も良いところを取り入れるって感じですね。

 

そういった経験を生かして、鍼灸治療院のWebマーケティングをコンサルティングしたりもしてます。

 

他に最近は、占星術や分析学も学んでおります。

 

革新分析でいえば、個性心理学やエニアグラムやウェルスダイナミクスや学習教育学や精神科学など、学びつつ。

 

伝統分析でいえば、古代中国の九星気学や方位学や古代インド占星術のジョーティッシュや四柱推命や裏星座や夢診断など占いだろうが、なんだろうが、選択肢に入れて学んでおります。

 

革新も伝統も良いところを取り入れるって感じですね。

 

学んで良い結果が出たものを友人にも実践してもらって、恋愛や勉強や仕事や人間関係で結果が出てるものもしばしばです。

 

このぎんじろう占いや才能分析はかなり当たるし、人生に活かせるので好評を頂いております。

 

また、これまでを振り返ってみて、どうやら僕は人生を通して「作ること」に心底興味があるみたいです。

(特に改造かな?)

 

特に古いものをぶっ壊して、新しいものを作ることに楽しさを感じます。

 

  • 「身体作り」
  • 「人間関係作り」
  • 「人材作り」
  • 「物作り」
  • 「場作り」
  • 「イベント作り」
  • 「組織作り」
  • 「価値観作り」
  • 「情報作り」
  • 「戦略作り」
  • 「戦術作り」
  • 「手法作り」
  • 「理論作り」

などなど。

 

何かをディプログラミングして、新しいものをリプログラミングするのが好きらしいです。

 

そうして生まれたものが僕の今の生きる喜びとなっています。

 

これからも「作ること」で圧倒的に発展し続けて、世の中に価値を与えていこうと思います。

 

今はまたさらに自分が学んで成長して、家族や恋人や友人や社会に貢献して、実際に仕事の環境や住む場所を変えようと、発展中です。

 

結局、人生を充実させるにはパートナーや家族や友人が大事ですからね。

 

なので人生では人間関係大事にしないとね。

 

ですが、健康じゃなければ最優先は身体です。

 

健康な身体を手に入れて、魂と物に余裕ができないと、結局人間関係も安定しません。

 

なので、体人物魂学のまずは、健康な身体を手に入れる。

 

その過程で、健全な人間関係も物も魂も手にする。

 

これが僕の基本姿勢です。

 

『体人物魂学〜いざ発展〜』

の発展の背景としては、本来人間はもっと開花して充実して幸せに生きれるはずなんだけど、現状の人たちを見ると、昔の僕も含めて消極的だし、実学の知識がないから人生で発展することができないというが僕の想いです。

 

だから、その人生から発展しようぜ。

 

ということですね。

 

ーーーーーーぎんじろう物語終わりーーーーーー

 

改めて、体人物魂学のコンセプトをおさらい

 

いかがでしたか?

 

僕のブログでは、『体人物魂学』という考え方を基にして、読んでもらえると、非常に読みやすいかと思います。

 

僕は様々な情報を発信しているのですが、「ぎんじろうはもともと凄い」と言われることがあったりします。

 

だからこんな発展できるんだ。みたいなことを言われるわけですが、そんなことはありません。とここで断言できます。

 

僕は、虚弱で体力もなかったし、ASD(アスペルガー発達障害)で運動や人に何かを発言するのも苦手な人間でした。

 

虚弱で体力がないのは、僕の母親や彼女に聞いてもらえれば、首を何度縦にふるんだよってレベルで同意だろうし、ASD(アスペルガー発達障害)で頭やお腹が痛いのに痛いと言えなかったり、スポーツや球技が下手すぎたりして、恥ずかしいプレーをしまくったのは、小学校の同級生と中学校の同級生に聞けば一発です(笑)

 

中学1年のときのソフトボール投げの記録なんて女子のレベルより飛んでなかったですし(笑)

 

それくらい何もできませんでした。

 

体力もないし、発言できない。本音と向き合うこともできない。そんな人間でした。

 

ですが、そんな人間でも発展できる。

 

ちょっとしたきっかけと実学の知識と思考それらが組み合わさることで、本当に人生はどんどん発展できるんだよ。ということを強く言いたいです。

 

結局発展の仕方は、日本人は幼少の頃から学ばないから、わからないだけで、日本人の理解力や知識レベルで言えば、わからないわけはないんですよね。

 

実学を学べば学ぶほど、体も人も物も魂も充実する。そして、また発展できる。

 

人生はどんどん充実して幸せになるでしょう。

 

僕の情報発信がきっかけで、発展する人が増えて、そして、その話を新たに聞けたら最高に嬉しいです。

 

『体人物魂学~いざ発展~』

 

目指していきましょう。

 

そのために、僕は、色々なメディアを制作&運営しているのですが、各メディアでは、より具体的な情報を公開しております。

 

無料なので、是非興味がある方は、ご覧ください。

 

好評いただいていて、僕のオウンドメディア上でしか流さない情報もよくありますし、各メディア限定企画もありますし、ここまで読んでいただいた方は、閲覧して損することはないかと思われます。

 

下記から閲覧できます。

ぎんじろうの制作物一覧はこちら

 

以上になります。

 

ぎんじろう
あなたに全ての良きことが雪崩のごとく起きます!

 

ギニーWebことぎんじろうでした。